「常識を疑うことから始めよう〜全ては正しく、全ては間違っている〜」

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  教員になり2度、教育観、価値観、人生観を変える転機が訪れました。

1度目はある人と出会ったことです。当時野球部の監督をしていた私は常に結果思考。選手がミスをすれば怒り、試合に負ければ不機嫌になる。良いプレーをすれば褒め、試合に勝てば上機嫌になる。練習メニューは強豪校がやっているメニューをコピー&ペースト。長時間疲労困憊になるまで練習することに満足し、根拠のある指導などしていなかったように思います。『野球部頑張ってるね』『野球部挨拶しっかりしてるね』と他の先生からの評価ばかりを気にしていました。そんなある日、私に転機が訪れました。知り合いの先生から野球の指導だけでなく、今までに出会った誰とも違う価値観を持っている人がいると聞きました。新しいものはなんでも吸収したかったので興味本位で話を聞くことになりました。ある人と初対面の日、私は妻に人生を変えるきっかけがそこにあると告げ、家を飛び出しました(ただの居酒屋へ)。思考がおかしくなるくらい考えさせられ、その日の帰宅は終電があるにも関わらず2時間かけて家まで歩いて帰ったのを覚えています。考えさせられたテーマは『常識』と『何のために』というものでした。『常識とは何か』という今まで考えもしなかった壁にぶつかりました。例えば、野球の常識。セオリーとも呼ばれるものですが、それはいったい誰がいつ、どのようにして作ったものなのか。おそらく、1年や10年ではなく、約100年前の野球のセオリーが現在も普遍的に残っている。時代は大きく変わり、それに伴い、骨格面、身体面、体力面も変化しているはずなのに、いつ誰が作ったかわからない『常識』にずっと振り回されていることに気づきました。モノの見方を全ては正しく、全ては間違っていると思いながら客観的に捉えると、世界が広く見えた気がしました。

 そしてもうひとつ『何のために』という永遠のテーマとぶつかりました。生徒のため、学校のため、というと聞こえはとても良いのですが、結局私のやっていたことは自分のため、自己満足がほどんどでした。そんな自分を変えようとしたタイミングで2度目の人生の転機が訪れました。原因不明の難病を患い、2020年1月病状が悪化。大腸全摘という苦しい決断をしたことが私の生き方をより大きく変えました。これほど人生について深く考えされられたことは初めてでした。『家族』『仕事』『生きる』など人生に関わるさまざまなことを『何のために』を当てはめながら考えるようになりました。何のために生きてきたのか、そして何のために生きるのか。

 過去の自分を振り返って見ると、大人だから、公務員だから、体育教師だから、世間体や他人からどう見られるかを気にしながら生きていたように思います。『嫌われないために』自分の意志や生き様など微塵も無かったように思います。大学卒業後から講師、教師として仕事をしてきましたが、世間知らずで社会のことなど全くわかっていないにも関わらず、社会を担う人材育成をするという矛盾。学校という小さなコミュニティのルールで子どもたちを縛っているだけで、満足している自分。学校教育に不満があるのではなく、なんの疑問も持たずに人生を歩んでいた自分を恥ずかしく思うと共に過去に指導していた子どもたちに私の価値観を押し付けていたことを素直に謝りたいと思いました。

 身近な人間関係やメディアによって作り出される常識が人の自由を奪ってしまうこともあると思います。『常識が悪。非常識が善』ということではなく、物事の見方を斜めや後ろから見てみることや多様な価値観を受け入れことが良識に変わり、新しいものを作り出すチャンスだと思います。

 私は、人との出逢いや大病というきっかけによって教育観、人生観が大きく変わりました。しかしよく見回して見ると自分の常識を疑う『きっかけ』は日常生活においてたくさん転がっています。社会の空気に便乗することは居心地も良く、周りからの批判もされません。しかし、そこに勇気と覚悟をもって『自分を変えよう、変わろう』と行動すると『きっかけ』に出会うことができます。常識を疑うことが自分を変える鍵であり、社会を変える鍵でもあると思います。新たな自分に出会い、誰もやっていないことにチャレンジする姿を子どもたちに見せることが私の『生き様』なのだと思います。学校、社会という常識の宝庫から飛び出した今、可能性しかない人生にワクワクが止まりません。

2022年1月 田代博之

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